Brilliant Girl
 土曜日の街に出るのは久しぶり。姉さんのお古の制服を着るのも一年ぶり、くらいなのかな。
 制服着るのって、好きだ。だって、男子の制服って飾りっ気がなくて。それに、今年からの高校の制服は学ランになるから、もっと地味になっちゃう。
 今日は暖かくて、汗ばむくらい。駅前は人の波で、僕が誰かなんて誰も気にしない。
 だから街って好き。
 いっつも自分を意識するのって、すごく疲れる。
 こうやって波に紛れて流されていれば、僕はあの街の鈴木くんじゃなくて、海の水の一粒。打ち寄せられて、また別の場所へ打ち返されて。
 これだけは、トモにもわかんないだろうなぁ。何でも話せる奴だけど、あいつは思いっ切り「男の子」だもん。
「今日、試験かなんか? 聖女の彼女」
 口を結んで、目をまっすぐ見返して、首を軽く振る。
 これだけでだいたいのナンパ君たちは退散。もう、だいぶ慣れちゃった。
 ウィンドウの横、ドーム状の大きなエントランスをくぐって……
ショップの中は空調が効いているみたいで、外とは異世界。
 そのままエスカレーターで二階に上がると、キラキラしたグラス・アンティークや、少し異国風の敷布、スチールアートの小物なんかがディスプレイされているのが目に入ってきた。
 天井のライトを乱反射するまぶしさに立ち止まると、何人かの女の子達が、グラスが並ぶ棚の前で笑いあっている。
 みんな、パンツにシャツの飾らない格好。いいなぁ、僕もあんな感じで、一緒にウィンドウ・ショッピングができたら。
 少し奥に入って、紫のエッジが流線形を描いた小さな飾り皿を手に取ると、その中の一人、背の低い女の子と目が合った。
 軽く目で頷いたつもりだったけれど、細身の、たぶん僕と同じ年ごろのその子は、少し冷たい感じの視線をよこすと、すぐにもとどおりの笑いさざめきに戻った。
 ……目的、果たさなきゃ。
 わざわざこんな街中まで出てきたのは、やっぱり地元の商店街じゃ買い物をしにくいから。普段着だけならともかく、下着までだと……。
 ファッションモールに入ると、全部の色合いが変わる。
 柔らかいライトに照らされ、ディスプレイされたたくさんの服。
 高い壁に掛けられたラベンダーのニットカーディガン。あのキャミソールとの合わせ、すごくかわいい。あ、でも、このマネキンが着てるタイトなジーニングもいいなぁ。これなら、僕でも大丈夫かも……。肩出すと、やっぱり無理があるから。
 でも、今日のメインは下着。これを買わないと、出てきた意味がなくなっちゃう。
 今でも、インナーのショップに入るのって恥ずかしい。女の子もそうだって言う子がいるくらいだから、こういう時こそ、誰かが一緒だったらって。
 バックライトの入ったブラとショーツのディスプレイを通り過ぎて、端っこの影になったところから店に入った。
 きれいに吊るされた中の、チェック柄がかわいいセットもの。
 あ、これいいかも。でも、似合うかなぁ。
 ちょっとだけ、赤とピンク、黄色のチェックのインナーを着けた自分を思い浮かべて……。
 ふん。
 突然、冷ややかな一瞥が頭の中を通り過ぎた。アンティークを後ろにした、さっきの女の子、の……。
 ゆっくりとハンガーを元に戻して、小さくため息が出るのを止められなかった。
 やっぱ僕って、中途半端だよね。でも、どうしようもないから……。
「ほらほら、これなんかよさげ〜、じゃない?」
「えぇ、無理めだって」
「そお〜? ノブ君ノウサツ! じゃないかな〜」
 向かいの壁際で響き渡ったのは、底抜けに明るい声。
「もう、アタシはちなとは違うんだからねぇ」
「あ、ヒドイ〜」
 ロマンティックな夜の演出に――ハートマークが添えられたコーナーに、三人の女の子。今声を発したばかりのジーンズの背中が大きく揺れて、となりのタンクトップ姿の肩をつついた。
 たぶん、高校生かそれくらい。僕より、ちょっと年上の。
 もう、決めちゃおう……。せっかくここまで来て、買わないのもバカだもん。
 楽しそうに下着を品評している女の子達を見てると、どうしてか、気分がもっとはかどらなくなりそうだし。
 どれにしようかなぁ。
 これも、悪くない……え?
 花柄のセットを手に取った先で、襟のついたジーンズの背中がくるりと振り返った。まるで、僕がそこにいたのを最初から知ってたみたいに。
 ペイズリーのバンダナで覆われた髪の下で、大きな瞳がもっと大きく開かれて。
 にこっ。
 紅くてぽったりした唇が、すごく嬉しそうに笑う。そして、布地に押さえられた耳元から流れ出たロングレイヤーの茶がかった髪は、先で少し内側にロールして、まるで雑誌のモデル――ううん、それどころじゃなくって。
 ぎこちなく笑いを返すくらいしかできなかった。
 どうしていいかわからなくて目を下に落とすと、え……?
 視界の端っこで、つなぎのジーンズがくるりと前を向いて、こっちへ。
「こんにちは〜」
 な、なんで。どうして?
 あっという間に陳列棚を回り込んで僕の横に立った彼女。
「あ、は、はい」
 生のままの山型眉の、ほとんど化粧されてない丸い顔。でも、そこだけ色が変わったみたいに明るくて、見つめずにいられないくらい輝いた大きな瞳は、少しも惑うところがなかった。
「それそれ。やっぱり、着おさめ? いいな〜、聖女の制服」
 僕の着ているワンピース型の制服の膨らんだ袖をちょんちょんとつつくと、すんなり長い腕には、銀のチェーンブレスレッドがはめられていた。
 あ、腰のベルトとお揃いのデザインだ。
 すごくかっこいい人だ。言葉を返す前に、そんなことが頭に浮かんじゃって。
「え、着おさめ?」
「だって、新学期から変わっちゃうんでしょ? 聖女の友達に聞いたんだぁ。とってもかわゆいデザインなのにねぇ」
 少しのんびりした喋り方。でも、どこにも屈託がなくて、僕は、知らなかった事実にどきっとする暇もなかった。
「そ、そうなんです。この制服、すごく好きだから」
「うんうん、そだよね」
 開いた胸元からのぞくえんじのタンクトップの胸元で腕を組んで顎に拳をつけると、大げさにうなずく。
 つなぎのジーンズスーツとバンダナのワイルドさに似合わない、ちょっとコミカルな仕草。さっき感じたカッコよさはそのままなのに。
 なんて人だろ。まぶしいくらい――そんなこと、身近な女の子に感じるなんて。
「あ、それ、かわゆいね〜。わたしも欲しくなっちゃうなぁ。でもでも、おこずかい、もうギリギリなんだよねぇ」
「あ、うん」
 手に持ってたパールホワイトにピンクの花柄のセットは、彼女の言うとおりとってもかわいいデザイン。もう少し、布地が多ければ、僕も、なんて……。
「ちな〜、決まったよ。あんたは?」
 友達の声に、手をひらひらさせる彼女。
「いいよ〜、わたしは。今日はエミちゃん達のお付き合いだもん」
「じゃ、行こうよ。お腹へっちった」
「はいにゃ〜」
 横を向くと、ジーンズの上からでもはっきりと目立つ、二つのふくらみ。
 ドキン。
 胸が、大きく一回打って、止まった。
 女の子の胸を、そんな風に見ることなんてなかったはずなのに、でも……。
「じゃ……」
 もう一度こっちを向いた彼女が、出しかけた言葉を飲み込んで、目を瞬いた。親指を唇に当てて、少し窄めぎみにする。
「むぅ〜。ねえ、」
 なんでだろ。この人がすると、コミカルな仕草が全部自然に見える。
「ね。一緒に買い物、しよ。いいでしょ?」
「え? で、でも……」
「ねえ、エミちゃ〜ん、もうおしまいでしょ」
「はぁ? ……ああ、そいうことね」
 こちらを見遣った白いタンクトップの子が、顎を突き出してうんうんとうなずいた。ブルーのチェック柄シャツのもう一人が、
「あ、ちなの『友達千人できるかな』か。いいよ〜、あたしら、メシ食って帰るだけだから」
「よろしくねぇ〜、聖女の彼女。その子、綱つけとかないと、どっかに流されてっちゃうから」
「へへへ、じゃね〜」
 紙袋を持った二人は下着を手に抱えると、レジの方へ歩いていく。
「ねえねえ、どれにするの?」
「え、えっと……」
 振り向いてすぐに、当たり前のように話しかけてくる丸い顔。同じくらいな背丈のせいか、息がかかるくらいすぐそばにあって。
 あんまりいきなりな展開に、どうしていいやらわからない。
 どうしよ、いい人みたいだけど……。
「ああ、ごめん、ごめ〜ん。わたし、ちなみ。みんな、なかなか名前で呼んでくれないけどねぇ」
 にこにこ笑いながら、高校の名前と今年から三年生だって。そして、
「お馬鹿高校でしょ〜。聖女とは大違い。へへへ」
「あ、ぼ、わたし、玲……子。聖女の二年になります」
 ほんとうは今年から高校生。でも、嘘をついてる感じはぜんぜんなくって。
「いい名前だね。子が付く名前って、憧れだなぁ。ね、レイちゃんでいい?」
「は、はい」
 びっくりした。だって、「玲」は僕の本当の名前。親しい人はだいたい、玲ちゃんって呼ぶから……。
「うんうん。ねぇ、これなんてどう?」
 その後は、信じられないくらい楽しいショッピングになって。
 ちなみさん――ちなさんと一緒にいると、ほんとうに普段どおりでいていいみたい。きゃあきゃあ言いながら服や下着を選んで、ベンチに座ってアイスを食べて。
 女の子と買い物するのって、話をするのって、こんなに楽しいんだ。気持ちをバラバラにして男の子の自分を演じなくっていいのが、とっても気楽。
「ほらあ、気遣わない〜。ボクでいいよ。レイちゃん、さっきから言い間違えそうになってるもん」
 制服をたたんで、買ったばっかりのプリントシャツと短めのフリンジスカートをはいた時には、少し恥ずかしかったけれど、すぐに気にならなくなって。
「あのね〜、ちょっとわたし、反省気味なんだよね」
 ちなさんは、何も隠さず、ざっくばらんに話してくれる。陸って名前の彼のこと。冬からこっち、構ってもらえなくて少しおイタをしちゃったこと。
「いいなぁ、ボクも、そんな彼が欲しいな〜」
 でも、それはほんとに心からの台詞? 僕にはよくわからないんだ。だって、誰を「好き」になるって言っても、どうしたらいいのか……。僕って、何なのか……。
 夕焼けが、風に揺れる木の重なりの向こうで、紅く広がっている。
 ちなさんの髪が吹かれて、ベンチに座る僕の首筋をくすぐる。
 開いた足の間に前かがみになった手を下げて、斜め上を見上げたちなさんが、燃える空よりももっと紅い唇に、とっても優しい笑みを浮かべる。
「夕焼けって、好きだな〜」
 そして、耳元からあふれ出たナチュラルブラウンの髪を両手で押さえて、伸びをする。
 大きな瞳が閉じられ、真っ直ぐ上に顔が向けられて。
 それ以上は、見ていられなかった。
 だって、胸がドキドキして――会った時と同じように。ううん、もっともっと強く。
 気にしちゃあダメだ。さっきまでとおんなじように、女の子同士……。
 チュ。
 え?
 急に顔の周りに風が起こって、温かい感触が唇に。
 チュ。
「やっぱり、おいし。レイちゃんの唇」
「ち……」
 目の前全部になった丸い顔が、悪戯っぽく上目遣いになって。
「おっきくなっちゃった? レイちゃんの?」
「ちなさん!」
 わかってた? からかわれて!?
「無理はよくないよ。楽しいこと、しよ」
 からかってなんかいない。どこまでも優しいちなさんの瞳が、僕のことを蔑んだりするつもりはどこにもないってことを教えてくれて。
 何か言おうと思ったけど、口が動かない。
 ちなさんは少しだけ首を振って、いいの、と目で言ったと思う。
 そして、もう一度柔らかい……、ううん、今度はすごく、強く唇が押し付けられて。
 ちょっとだけ、夢想したことがないわけじゃなかったんだ。もし、キスしたらどんな風だろう、って。
 でも、いつもその影はおぼろで、あいまいで。
 あ、ダメ。
 唇を割って、生暖かいものが侵入してくる。こ、こんなのって。
 腰がジンジンする。そして、アレが……。ヤダ……。
「ち、ちなさん」
 何とか身体を離すと、ちなさんは舌をちらりとのぞかせて、
「いやだった? レイちゃんの唇、わたしのとチュ、したいって思ったから」
「ううん、」
 僕は首を振った。嫌なんかじゃない、でも。こんなに急に……。
「ボク……、初めて、だから。それに、何だか、グルグル頭が回っちゃって」
「そっかぁ。レイちゃん、はじめてなんだ。ゴメンね……。ファー
ストキッス、わたしなんかがもらっちゃって」
「ううん、」
 どうしてそんなことを言ったのか、わからない。でも、少しすまなそうに身体を離したちなさんを見ていたら、自然に言葉が飛び出してしまって。
「そんなこと、ない。ちなさんとなら、ボク、いいし……。……シテ、も」
 ちなさんの顔がみるみる輝きを取り戻して、後は、そのまま、ベッドの上へと気持ちが繋がっていた。
「うわぁ、かわいい」
 ホテルの部屋に入ってすぐ、後ろから抱きすくめられちゃって。
キスはすぐに柔らかい手の動きと合わさって、僕は、もう……。
 そしてスカートの中にちなさんが入ってきて言われた時、あの感覚がすごくそばまできてるのがわかって、膝を閉じて隠そうと思ったけれど、恥ずかしさとは別の何かがそこにあって。
 夢想しながらたまにしちゃう自慰とは全然違う、止めようがないくらい強い感覚。
 ショーツの上から、あったかい手が触れた――。
「あぅ」
 で、出てる……。ヤダ。
「あ……」
 ベッドの上で、身体をぴったりと寄り添ってくれるちなさん。しばらく、そのまま昂まりが包み込まれていて。
「イっちゃったね、レイちゃん」
 そして、へへへと笑うと、そのままもう一度僕の足の間に。
「い、いいよ!」
「いいのいいの、きれいにしてあげるね。あ。このかわゆいの、レイちゃんらしい〜」
 逆らえなかった。ちなさんはするりと服を脱ぎ落とすと、僕のあそこに……。
 シテ欲しい。シタイ……。
 どこかから、すごく強い声。
 チュ。
 暖かい息がかかって、スカートもショーツも取られちゃって。
「したい?」
 も一回立ち上がっちゃてる僕のもの。手に支え持ったちなさんは、下から見上げて茶目っ気たっぷりに笑う。
 僕は、なんて答えていいのかわからなくて、目を逸らすしか。
「初めてだもんね。ちゃんとするのは、大事に取っといた方がいいよね、うん」
 密やかに聞こえた瞬間、今まで感じたことがない熱さに、包まれて――ああ、それって。
 知ってはいたけど、女の子にしてもらったら、ものすごく違和感があるんだろうなって。でも、ちなさんは……。
 だ、ダメ。
 さっきイったばっかりなのに、ちなさんの口の中、温かさがもう、とっても気持ちいい。
 すごい勢いで振られる頭の動き。あ、そんなに、されたら。
 また、あそこの根元で潮があふれそうになった時、温かさが解けて、ちなさんの身体が少しだけすり上がった。
「ほらあ、これもいいでしょ?」
 柔らかい感触が、僕の全部を包み込んでた。見ずにいられなくて、
ちょっとだけ目を開けると。
「ふふ、ね?」
 屈託なく見上げるちなさん。はちきれそうな胸を両手で寄せて、身体をこすり上げて、下げて……。
 チュゥ。
 ど、どうしよう、もう、何がなんだかわかんない。
 身体の下半分全部が、柔らかくて熱いものに覆われて、そして、一番敏感なところが、もっと熱い感触で、ギュッって……。
 閉じた目の内側で、銀色が弾け飛ぶ。
 ダメ……。感じ……。
「あ、ダメ、ちなさん!」
「いいよ、きて、レイちゃん。わたしも……」
 一瞬離れた唇、が、また、たぶん、僕のを捉えた時。
 もう、身体中が弾け飛んじゃう。
 熱くて激しい流れが身体の奥から次々に上がってきて、止まらない。ちなさんの温かい中に、どんどん出ていってる…。
 もう一回、ギュって強く包み込まれた時、ちなさんの身体も細かく震えているのがわかった。
「はあ、わたしも、気持ちよくなっちゃった〜」
 口元を拭ったちなさんが、顔にかかった髪の毛を後ろにまとめながら微笑んだ時、僕は慌ててシーツを自分の身体に巻き付けていた。
 何もかもを忘れちゃう一瞬が過ぎてみると、何だかとても恥ずかしくって。
「もう、隠さない、隠さない。レイちゃん、気持ち良さそうだった、にゃ〜」
 思いっきりホワンとした調子で言われたら、どうしても笑いたくなっちゃって。
 後はもう、勢いに任せて喋っちゃってた。シャワーを浴びてる間も、着替えをしている間も。
 男の子であること、女の子の気持ちに寄ってしまうこと。僕っていったいどうしたらいいのか、それより、なにものなんだろう。
 しぶしぶ認めてる家族。何度か投げかけられた、到底忘れられないいくつかの言葉。
 ちなさんは、その一つ一つにうんうんとうなずいて、最後に言った。
「いいんだってぇ。レイくんはレイくんじゃない。ね、普通でいいよ。男の人とか、女の人とか、たいしたことじゃないんじゃないかなぁ。楽しいと思うな〜、レイくんらしいのって」
 そして、肉厚の唇を突き出して、チュッと僕の唇にキス。
「ちなさんて……」
「え、何かおかしい? わたし〜。いっつも言われるんだよねぇ、陸くんにも。『ちなの言う事、全然わかんないぞ、って』」
 どうしても笑いたくなって、声を上げてしまう。
「あ、やっぱり変なこと言ったんだ、わたし。でもでも、嘘じゃないよ。レイくん、ホントに可愛いもん」
「ううん、」
 僕は首を振った。ほんとうに普通に思えた。自分のことが。
「ありがとう、ちなさん。ちなさんのこと、なんだか分かった気がする」
 そして、正直に思った。こんな人を彼女にしておける陸って人は、きっとスゴイ人で、僕もこんな人のそばにいられるようになりたいって。
「ちなさんの彼なら、すごくカッコイイ人なんだろうなぁ。いいな<ぁ」
「うんうん、そうだよ。もちろん〜。わたし、陸くんのこと、愛してるんだ」
 人でいっぱいの交差点で、手を振り合って別れた後、初めて気付いた。
 僕、ちなさんが誰なのか、何も聞いてない。ちなみって名前だけで、最初に一度だけ聞いた学校の名前も、もう思い出せなかった。
 携帯の番号だって。
 大きくて引き込まれそうな瞳。くるくる表情を変える唇。かっこよくて、スタイルも抜群なのに、少しも気取らないしぐさ。
 眩しいくらいの一コマ一コマだけが残って、僕は、ちなさんが紛れていった人の波を目で追った。
 追いかけよう。
 ……ううん、やっぱりいい。だって……。
 人の波の後ろには、七色のネオンが溢れる街。夜空まで照らすきらめきの中で、立ち並んだ建物のあいだに、西の空が見えて。
 そこには、光があふれる街の海を越えて、明るく輝いている一番星――。

    了
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